外科学講座について
東京慈恵会医科大学外科学講座ホームページをご覧いただき、誠にありがとうございます。
慈恵医大外科学講座は大講座制を採用しており、消化管外科(衛藤謙教授)、肝胆膵外科(池上徹教授)、呼吸器・乳腺・内分泌外科(大塚崇教授)、血管・小児外科(大木隆生教授)の4分野から構成されています。
この4分野が臓器別に上部消化管外科(矢野文章診療部長)、下部消化管外科(衛藤謙診療部長)、肝胆膵外科(池上徹診療部長)、呼吸器外科(大塚崇診療部長)、乳腺・甲状腺・内分泌外科(野木裕子診療部長)、血管外科(大木隆生診療部長)、小児外科(大木隆生診療部長代行)の7診療部に細分化され、医局員はこのいずれかに所属して診療・研究に従事しています。
大講座制を採用する医局は学内外に多々ありますが、その運営方式は千差万別です。中には大講座の看板を冠したのみで、実質的には別の医局として運営しているような、緩やかな運営形態も見受けられます。慈恵医大外科学講座はハード・ソフトの両面で一講座として機能している大講座であり、医局には分野・診療部間の仕切りはなく、カンファレンスや研究会、医局行事も合同で開催しています。例えば約60名の医局員が在籍する本院では当直や院内の委員会業務などを1つの医局として全員で分担していますが、これは分院や派遣先の関連病院においても同じです。臓器ごとに単一の医局として運営することに比べれば、一人一人の業務負担が大幅に軽減されることはもとより、産休や育休を取得したスタッフのカバーも円滑に行われます。これはマンパワーが豊富な大講座制ならではのメリットであり、労働環境の改善にも大きく寄与しています。
臨床面においても、高難度の血管処理が必要な消化器外科の手術に血管外科のスタッフがサポートに入ったり、縦隔への操作が必要な甲状腺手術を乳腺・甲状腺・内分泌外科と呼吸器外科が合同で行なったりと、診療部どうしのコラボレーションが日常的に行われています。常日頃から“一つ屋根の下”で良好なコミュニケーションを取る関係は、患者様の治療の質の向上にも大きく貢献しています。
人事に関する調整は7診療部ごとに診療部長の権限で行っておりますが、最終的に講座全体としてバランスが取れるように一本化し、関連施設に安定した人材派遣を行っています。
なお、レジデントは入局してから3年間は診療部の“ゼッケン”をつけることなく一般外科の修練に取り組み、修了後に初めて診療部を選択することとなります。この診療部の選択においては、完全に個人の自由が尊重されます。
外科学講座組織概要
統括責任者
大木 隆生
東京慈恵会医科大学附属病院(本院)
消化管外科
衛藤 謙 分野担当教授
上部消化管外科
診療部長 矢野 文章
下部消化管外科
診療部長 衛藤 謙
肝胆膵外科
池上 徹 分野担当教授
肝胆膵外科
診療部長 池上 徹
呼吸器・乳腺・内分泌外科
大塚 崇 分野担当教授
呼吸器外科
診療部長 大塚 崇
乳腺・甲状腺・内分泌外科
診療部長 野木 裕子
血管・小児外科
大木 隆生 分野担当教授
血管外科
診療部長 大木 隆生
小児外科
診療部長 黒部 仁
柏病院
診療部長 戸谷 直樹
第三病院
診療部長 岡本 友好
葛飾医療センター
診療部長 小川 匡市
沿革
慈恵医大外科学講座の源は学祖である高木兼寛先生に始まります。高木先生は明治13年(1880年)に英国セント・トーマス病院への留学を機に英国外科学会のディプロマを受け、31歳で外科医として帰国し、翌明治14年に本学の源流である成医会講習所を開設されました。明治15年に有志共立東京病院、明治24年には個人経営の東京病院が開院し、有志共立東京病院は明治20年に東京慈恵医院、明治40年に東京慈恵会医院へと改称されました。
時は昭和の初期に至り、外科は東京病院と東京慈恵会医院の両方に設置され、高木喜寛教授がいずれも病院長、外科教授として統轄していました。そして昭和9年(1934年)から児玉周一教授が東京病院、松山陸郎教授が東京慈恵会医院を分担して指導する2外科体制が始まりました。昭和20年、松山教授の後任として高田善教授が、昭和22年に児玉周一教授の後任として大井実教授が就任し、第一外科学講座(高田教授)と第二外科学講座(大井教授)の2講座制が正式に発足しました。昭和21年に青戸分院が、昭和25年に第三分院が開設され、それぞれ第二外科、第一外科が担当しました。昭和48年に第三分院外科は講座となり中村浩一教授が就任、次いで昭和60年に青戸分院外科が講座となり三穂乙實教授が就任し、ここに外科4講座体制が確立しました。第二外科では昭和44年に長尾房大教授が、次いで昭和63年には青木照明教授が就任しました。昭和56年、綿貫喆教授逝去により櫻井健司教授が第一外科学講座教授に就任、昭和60年に第三分院外科・中村教授の後任に伊坪喜八郎教授が就任しました。
こうして確立した外科4講座体制は平成の世に至って臓器別に再構築された大講座制に移行することとなり、平成7年(1995年)に第一外科櫻井教授の後任を第三病院外科伊坪教授が兼任した事を端緒として大講座制への統合が開始されました。平成8年に伊坪教授の後任に山崎洋次教授が就任した際に第一外科から外科学講座第一へと名称変更され、同時に第三病院外科が統合されました。平成13年4月には「講座等あり方検討委員会」の答申を受け、外科学講座第一、外科学講座第二、青戸病院外科は統合され、54年続いた複数外科体制に終止符が打たれました。完全なる大講座制の確立です。
平成14年に外科学講座初代統括責任者に青木照明教授が就任し、以後、栗原敏学長(兼任)、矢永勝彦教授さらに平成19年より現在の大木隆生チェアマンに至っています。学祖高木兼寛を源流とする外科学講座には輝かしい実績が多数ありますが、特筆すべきは日本外科学会総会を3度(高木兼寛先生、大井実教授、長尾房大教授)も主宰している事です。同学会は専ら旧帝国大学により運営されており、私学で複数回開催したのは100年を超える歴史で29校中3校しかありません。令和5年には大木隆生チェアマンが第123回定期学術集会を主宰することが決定しており、外科学講座の歴史に新たな1ページが刻まれようとしています。
地域医療支援
2015年2月 チェアマン自らが赴き、
高知県のいの町立仁淀病院(100床)にてステントグラフト手術を実施
慈恵医大外科学講座は先駆的な取り組みとして、地域医療の支援を継続して行っています。従来の地域医療は、地元の大学医局や中核病院が医師を派遣することで成立してきましたが、新・初期臨床研修制度の開始とともに派遣元に余力がなくなり、多くの病院が医師不足の憂き目に遭いました。地方自治体や病院は大学医局に医師派遣の要請を行いつつ、人材派遣会社を通して医師募集を行うなど、一部では経済的なインセンティブでの解決も模索されてきました。しかしながらこうした手法は現場の不公平感を招くことに加え、財政健全性の担保が困難であり、抜本的な解決策とはなりえませんでした。職業選択の自由や人権が壁となり、国家権力での解決も極めて困難と言わざるを得ません。そして特効薬がないままに人手不足が慢性化し、疲弊した医師が離職、更に人手が不足する、という負のスパイラルに陥ったのは周知の通りです。
大木隆生チェアマンは、かねてから地域医療の支援を医局の社会的使命として掲げ、都市部の活力ある大学が率先して地域医療を支援するのが現実的かつ持続可能な支援のあり方と考えていました。慈恵医大外科学講座は全国的な外科離れが進む中でいち早くそれを脱し、医局員数300人をうかがう大規模な医局へと発展することができましたので、関連施設の外科医充足度や国内外への留学や大学院進学者数を見極めながら地域貢献に乗り出しました。こうしてこれまで宮城県、栃木県、福島県、静岡県、長野県、新潟県、高知県の病院に継続的に医師を派遣してきました。
常勤外科医の派遣により、派遣施設では手術件数や救急受け入れ件数が増加するとともに、元々在籍していた常勤医師には当直回数の減少や検査、委員会業務の軽減などの恩恵をもたらします。そして時には派遣医師が行う高難度手術をサポートするスタッフをスポットで派遣し、地域住民に対して都市部の中核病院と遜色のない医療を提供しています。何より地域医療は言わば医療の原点であり、派遣されたスタッフは訪問診療や地域住民との交流など、都会の診療では得難い経験をすることができます。
派遣の担い手となるのは主にレジデントですが、決して“片道切符”ではなく1年間で派遣が解除されることが保障されていますし、各自の経験症例数をチェアマン自身が綿密に把握して派遣調整を行っていますので、外科専門医の取得に支障をきたすことはありません。また派遣に際しては、本人の適性や家族の協力、理解などが十分に考慮されますので、強制的に派遣されることもありません。
地域住民にとっても、地方自治体・病院にとっても、派遣医師によっても三方よしのスタイルは、持続可能な地域医療支援のロールモデルになると確信しています。
チェアマン夕食会
2018年9月の第124回チェアマン夕食会 大塚崇教授も参加
慈恵医大外科学講座は月に1度、会費無料の「チェアマン夕食会」を開催しています。(※)大木隆生教授がチェアマンに就任して以来、毎月欠かすことなく開催している伝統のイベントで、参加者は本院勤務のスタッフ、研修医、学生が多くを占めますが、医局秘書、分院や関連病院に勤務するスタッフも三々五々に参集します。時には他科の医師がゲストとして訪れることもあり、笑顔の絶えない活発なコミュニケーションが繰り広げられています。
慈恵医大外科学講座の医局員は日頃から大木チェアマンにメール一本で仕事やプライベートの相談をすることが可能です。大木チェアマンは医局員との対話を重要視しており、この夕食会では自ら参加者のもとを巡り、医局員からは積極的に講座運営に関するパブリック・コメントをヒアリングしています。時として、大木チェアマンに要望を上申するためにチェアマン夕食会に参加する医局員もいます。
そして何より医局員と研修医・学生の交流もチェアマン夕食会の大切な目的です。研修医・学生が将来の夢を語り、医局員が人生の先輩としてアドバイスを送る。チェアマン夕食会ではこんな光景が当たり前のように繰り広げられています。風通しの良さを重んじる慈恵医大外科学講座ならではのイベントだと自負しており、既に開催回数は140回を超えました。
普段は本学附属病院(本院)近くの居酒屋で開催しておりますが、第50回、第100回など節目の回は、豪華絢爛な会場を用意して“メモリアル夕食会”を開催しています。
※新型コロナウイルスの感染拡大防止の観点から、チェアマン夕食会の開催は見合わせております。